2024年9月の聖書の教え

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思いやり

 「私は自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたへの思いやりからです。」(コリント人への手紙第二1章23節)
  パウロは、「神を証人にお呼びして」という非常に強い表現で、自分の心の真実さを語っています。「あなたがたへの思いやりからで」の別訳によれば、コリントの兄弟姉妹を「苦しめずにおきたかった」のです。パウロは自分のことではなく、コリントの兄弟姉妹のためを思っているのです。ですから、思いやりというのは、相手の立場に立って考えることだと分かります。

  思いやりは、愛の一つの表現です。そのことは次のみことばからよく分かります。
「兄弟愛をいつも持っていなさい。…牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。」(ヘブル人への手紙13章1,3節)
「兄弟愛」という言葉のすぐ後に、牢につながれている人々と虐げられている人々に対する思いやりが勧められています。「愛」は思いやりによって現すことができるとも言えます。
「自分も牢にいる気持ちで」とは、相手の置かれている状況をよく考えて、つまり相手の立場に立ってということです。
「自分も肉体を持っているのですから」とは、相手と自分には共通点があるので、相手の立場を理解することができるはずだ、ということを教えています。

  私たちは思いやることを忘れることはないでしょうか。たとえば、「こういう質問をしたら、相手はどう考えるだろうか」ということを考慮すべき時があります。また、相手がどう思おうと言わなければならない時もあります。

「兄弟愛をいつも持っていなさい」というみことばを実践することができますように。愛を思いやりによって現すことができますように。  

2024年8月の福音

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「人の生くるはパンのみによるにあらず」 

 
「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたし(イエス)を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」(ヨハネの福音書6章26節)
主イエス様はこのようにおっしゃいました。

イエス様はしるし(証拠としての奇跡)を行いました。わずかのパンで大勢の人を満腹にしたのです。その結果、ユダヤ人はさらにパンがほしくてイエス様を探し求めました。

たしかにパンは生きるために必要なものです。私たちは空腹であり続けることはできません。命にかかわるからです。それは昔も今も変わらない事実です。

私たちが仕事を求めるのは仕事によって金を得て、金によってパンを得るためではないでしょうか。

パンが得られたら、次は健康を求めます。最近の日本ではこれらを得ている人が多いので、その次には生きがいを求めます。

それで十分でしょうか。

「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子(イエス)が与える食べ物です。」(同27節) 
 
パンや健康や生きがいが得られても、私たちは必ず死ななければなりません。主イエス様はその死の問題を解決できるとおっしゃいました。 
 
いつまでも保つ永遠のいのち、そんなものがあるわけがないとおっしゃる前に、集会においでくださって、聖書の語る永遠のいのちとそれを得る方法についてお聞きくださようにお勧めします。 

2024年8月の聖書の教え

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「静かに考えます」

  「私は、あなたのなさったすべてのことを思い巡らし あなたのみわざを 静かに考えます。」(詩篇77篇12節 アサフによる。賛歌)

「私は昔の日々を思い起こし あなたのすべてのみわざに思いを巡らし あなたの御手のわざを静かに考えています。」(詩篇143篇5節 ダビデの賛歌)


  詩篇の77編はアサフによる賛歌で、彼が「苦難の日」(同2節)に歌ったものです。

 また、詩篇の143編はダビデの賛歌で、彼が「たましいの苦しみ」(同11節)の時に歌ったものです。

  アサフもダビデも、そのような困難な状況の時に、主のすべてのみわざに「思いを巡らし」、主の御手のわざを「静かに考えていました。」その結果、アサフは「神に声をあげて叫ぶ」(同1節)ことができ、ダビデは「主よ 私の祈りを聞き」(同1節)と主に祈り求めることができました。

  私たちは、困難に遭遇した時に、慌ててしまったり、自分の力で解決しようとしたりしがちではないでしょうか。しかし、そのような時にこそ、アサフやダビデのように、全知全能なる主を見上げて、主の御手のわざを静かに考えることができたら幸いです。

  また、私たちは、日々忙しさの中にあって、「主の御手のわざを静かに考える」時を持つことが難しいですが、主イエス様がどんな忙しさの中にあっても、朝早く起きて静けさの中で祈って御父と交わられたように(マルコの福音書1章35節)、私たちも御父と御子との交わりを豊かにするために、「主の御手のわざを静かに考える」時を保つように努めたいものです。

2024年7月の聖書の教え

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御霊によって歩む

  主は父なる神様に帰る、その時が近づかれた時に、弟子たちに大切なことを数多く語られました。

 

  その中で、主は、私たちの助け主なる御霊について語られました。

 「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいてくださるようにしてくださいます。」(ヨハネの福音書14章16節)

  助け主なる御霊は、主の願いによって、父なる神様が遣わしてくださる御方で、その助け主は、いつまでも私たちとともにいてくださいます。

「御霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(同26節)

 御霊は、主イエス様が話されたすべてのことを思い起こさせることによって、私たちを教え導いてくださいます。

 「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(同27節)

 御霊は、主イエス様が持っておられる平安を私たちに与えてくださって、私たちが心を騒がすことが無いように導いてくださいます。

2024年7月の福音

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年年歳歳

 年年歳歳花は相似たり
 歳歳年年人は同じからず

これは、唐の時代に生きた劉希夷(りゅうきい)が作った詩の一部ですが、日本でも有名なので、ご存じの方が多いでしょう。日本では花と言えば桜ですが、ここに出てくる花は「桃李」(ももとすもも)です。この句は、「年ごとに花は同じように咲く。しかし年ごとに見る人はちがう」という意味です。日本人ならば、桜を見て同じように感じるでしょう。

厳密に言えば、花の咲く時期は毎年全く同じではなく、木は枯れることもあります。しかし、花が咲くことに変わりはなく、木の寿命は人より長いのです。

悲しいことに、人は死にます。なぜ人は死ななければならないのでしょうか。聖書は「罪の報酬は死です」(ローマ人への手紙6章23節)と語っています。人は神の前に罪を犯すので、死ななければならないのです。例外はありません。

死はすべての希望が終わる時だと、私たちは考えます。死ねば、もはや花を見ることもできません。死を解決する方法は全くないのでしょうか。聖書はあると告げます。
 「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。』」(ヨハネの福音書11章25節)
イエス様がここで語っているいのちは、永遠のいのちです。肉体のいのちではありません。永遠から永遠まで存在なさる神様は、私たちに永遠のいのちを与えることができるお方です。

私たちが永遠のいのちをいただくためには、私たちに死をもたらした罪の問題を解決しなければなりません。そのためにイエス様が十字架にかかってくださいました。
 「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」(ローマ人への手紙3章23,24節)
 
集会においでになって、聖書を通して永遠のいのちについてお聞きになられますように心からお勧めします。

2024年6月の聖書の教え

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外からのことばに対して

 「民は黙って、彼に一言も答えなかった『彼に答えるな』というのが、王の命令だったからである。」(列王記第二18章36節)

 アッシリア王の部下、ラブ・シャケがエルサレムに攻め入ろうとした時に、彼はヒゼキヤ王と民を挑発し、神様を嘲りました。そのような彼の態度に対して民のとった行動は、「一言も答えなかった」というものでした。また、そのことを告げられた時、ヒゼキヤ王のとった行動は「主に祈る」ということでした。

 

「そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。」(テモテへの手紙第一2章8節)

 パウロはテモテにこのように勧めました。私たちは主を否定する外からのことばに対して時に動揺したり、落ち込んだり、感情的になったりする者です。しかし、ヒゼキヤ王がラブ・シャケに対して真向から反論することなく主に祈ったように、私たちも祈り、またパウロが勧めた通り、その人の救いのために祈ることができれば幸いです。

   

「ですから、愛する者たち。あなたがたは前もって分かっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。」(ペテロの手紙第二3章17節~18節)

 ペテロは、終わりの時に嘲る者たちが現われて嘲ることについて記しました(3節)。私たちはそれらの惑わしに誘い込まれず、「主イエス・キリストの恵みと知識において成長」し続けることが幸いです。 

2024年6月の福音

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住む所 

 「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、これを堅く立てた方、これを茫漠としたものとして創造せず、住む所として形造った方、まことに、この主が言われる。」(イザヤ書45章18節)

この聖書のみことばは、天地万物を創造されたまことの神様が、私たちが住んでいるこの地を、人の「住む所」として造られたことを示しています。
しかし、神様が創造してくださった、すばらしいこの地は、人が神様の前に犯した罪によって損なわれ、のろわれたものとなってしまいました。(創世記3章17~19節)

しかし、私たちをこよなく愛しておられる神様は、主イエス様の十字架のみわざによって、私たちの罪を贖ってくださいました。そして、それを信じる者の罪を赦してくださいます。

 「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と行ったでしょうか。」(ヨハネの福音書14章2節)
このみことばは、主イエス様が弟子たちに語られたことばです。主イエス様は、このことばの通りに、私たちの「住む所」を天に用意してくださいます。

 「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫びも、苦しみもない。」(黙示録21章4節)
このみことばは、主イエス様が私たちのために用意してくださる、天の「住む所」の光景を示しています。

ぜひ集会においでくださって、主イエス様が用意してくださる、天の「住む所」についてお知りになられますようにお勧めします。 

2024年5月の聖書の教え

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ハガイとゼカリヤ

 神の約束と恵みによって、主の宮を再建するためにバビロン捕囚からエルサレムに帰還した神の民は、2年目に主の宮の工事を始めました。主を賛美し感謝しながら主の宮の礎が据えられた際、敵たちが近づいて、再建工事を中止に追い込みました。このような困難なときにハガイとゼカリヤが遣わされました。

①  神の民が再建の工事の時はまだ来ていないと考えていたのに対して、ハガイは「あなたがたの歩みをよく考えよ。」(ハガイ書1章5節)と、主のみこころを告げました。

②  ゼカリヤは、「万軍の主はこう言われる。わたしに帰れ」(ゼカリヤ書1章3節)と告げ、神の民を励まし、勧めました。

  この二人の預言者としての働きが、エズラ記5章1節に記録されていて、ともに主の御名によって預言をし、神によって与えられた務めを果たしたことが解ります。

  その結果、神の民はみことばに聴き従い、神が民の霊を奮い立たせたので、主の宮に行き再建工事に取り掛かりました。そして、建設の工事を成功させ、宮は完成しました。(エズラ記6章14、15節)


  以上の宮の再建工事をとおして、現在、困難な状況にある信者が教えられることがあります。また、新約の聖徒に対しパウロは「あなたがたは、キリストのからだであって、1人ひとりはその部分です。」(コリント人への手紙第一12章27節)、「いつまでも残るのは、信仰と希望と愛、これら三つです。」(同13章13節)と教えています。 


  キリストの栄光を現すため、各自、主からの賜物が与えられ、それぞれの務めがあります。日々現状をよく考え、聖霊に導かれた信仰生活をしているか、祈っているか、を顧みる必要があります。信仰生活の中で兄弟姉妹とともに愛の実践の働きに与りながら、主の栄光を現したいものです。

2024年5月の福音

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「何をしてほしいのか」

 「イエスは彼らに言われた。『何をしてほしいのですか。』」(マルコの福音書10章36節)
主イエスの弟子であるヤコブとヨハネが、主イエスに願い事をしにやって来ました。彼らは何がほしかったのでしょうか。
「彼らは言った。『あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。』」(同37節)
簡単に言い換えると、主イエスがイスラエル人の王になるとき、二人の弟子に地位と名誉と権力を与えてほしいと言ったのです。

主イエスはなんとお答えになったでしょうか。
「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。」(同38節)
弟子たちには求めていることの本質が分かっていなかったし、それを得るためにどんな犠牲を払わなければならないかもわかっていなかったのです。

 「イエスは彼に言われた。『わたしに何をしてほしいのですか。』すると、その目の見えない人は言った。『先生、目が見えるようにしてください。』」(同51節)
目の見えない人も、弟子たちと同じように主イエスに願い事をしました。彼の願い事は彼にとってもっとも必要なことでした。目が見えなければ、たとえ地位と名誉と権力を手に入れても、決して幸せになれないでしょう。

「そこでイエスは言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。』」(同52節)
主イエスは目の見えない人の願いをかなえてくださいました。
これは奇跡です。主イエスでなければできないことです。主イエスは人となった神なので、この奇跡を行うことができたのです。
目の見えない人は 主イエスが必ず見えるようにしてくださると信じていました。この信仰があったので、主イエスは目の見えない人の願いにこたえてくださったのです。
 
あなたは何がほしいですか。おそらくあなたは目が見えるでしょうから、そうであれば目が見えるようになることを願う必要はありません。しかし、目が見えない人も見える人もどうしても必要なものがあります。地位と名誉と権力は、人間がどうしても必要なものではありません。どうしても必要なものは何でしょうか。それは永遠のいのちです。主イエスはそれを与えることがおできになります。そして、それを得るために必要なのは信仰なのです。
 
ぜひ集会においでくださって、聖書が語る主イエス、永遠のいのち、信仰についてお聞きくださいますようにお勧めいたします。

2024年4月の聖書の教え

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 賛美のいけにえ

私はあらゆるときに 主をほめたたえる。私の口には いつも主への賛美がある」(詩篇34篇1節)とダビデは歌っています。

 詩篇にはダビデをはじめ、多くの人の賛美が記録されています。

  それを見ると、自分には「賛美」することが大変少ないと感じます。祈ること、感謝すること、それもまた少ないとは言え、それにもまして、賛美することはひときわ少ないように思います。

 「賛美歌」を歌うことだけが賛美ではありません。賛美歌は、御言葉を土台にして信者である作者が記した言葉です。自分は自分の言葉でどれだけ神様を、イエス様を、賛美しているだろうか。
 集会での公の祈りには「賛美します」という言葉が聞かれます。では個人的な祈りの中で、必要を求めて祈り、願い、恵みを覚えて感謝することのほかに、賛美はどれほどあるでしょうか。

 では、どんな時に賛美することができるのでしょう。ダビデは「あらゆるときに」と言っています。34篇の表題には「ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに」とあります。普通ならば賛美できないように思える中でも、賛美はできるということがわかります。詩篇には、切実な願いや祈り、守られたことへの感謝もあります。私たちはみな生活の中で、祈り、願い、感謝、そして賛美をささげるべきです。

主はこの口に授けてくださった。新しい歌を 私たちの神への賛美を」(詩篇40篇3節)。
ダビデは賛美も神様からくると言っています。
それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか」(へブル書13章15節)とへブル人への手紙の記者は語ります。

賛美のいけにえは、私たちが当然神様におささげすべきもの、神様が喜んで受けてくださるものです。直訳では「御名を告白する」とあります。神様はどういう方かを覚えて、そのまま言い表すことが賛美だと教えられます。

日々賛美しましょう。

2024年3月の福音

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齢(よわい)

  齢(よわい)とは、人が生まれてから重ねてきた年数のことです。
 
  イスラエルの指導者であったモーセは、人の齢について次のように語っています。
  「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。」(詩篇90篇10節)

厚生労働省の「簡易生命表(令和4年)」によりますと、2022(令和4)年の日本人の平均寿命は男性が81.05歳、女性が87.09歳ですから、今から三千年以上昔のモーセの時代と今の人の齢はあまり変わっていないことがわかります。しかも変わらないのは人の齢だけではなく、人生のほとんどが労苦とわざわいに満ちたものであることと、人生が瞬く間に過ぎ去ってしまうことも変わりがありません。
 
救い主イエス様は、次のように語っています。
  「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネの福音書11章25節)
 「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。」(ヨハネの福音書6章47節)
 
主イエス様は「わたしは、よみがえりです」と語られたように、十字架にかかって死なれましたが、三日目に死を打ち破ってよみがえられました。上記のことばは、死を打ち破ってよみがえられた主イエス様が語られたことばです。 主イエス様は、イエス様を信じる者が死によっても損なわれることのない「永遠のいのち」を持つことを約束されました。
  聖書と主イエス・キリストは、限りのある人生を送っている私たちに、救い主イエス・キリストによる終わりのない「永遠のいのち」について証ししています。

ぜひ集会においでくださり聖書から「永遠のいのち」についてお知りになりますようにお勧めします。

 


2024年3月の聖書の教え

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差別やいじめのない方

 「差別やいじめのない社会にしよう!」というのは、この地上では虚しいスローガンです。誰もが差別やいじめは悪いと知っていながら、様々な場面で差別やいじめのニュースを聞きます。そもそも、創世記の時代から「いじめ」は存在していました。アブラムの妻サライは、自分が女奴隷のハガルを妻として夫に与えたのに、ハガルがみごもると「サライは彼女を苦しめた(第2版では「いじめた」)」(創世記16章6節)とあります。

差別やいじめがないことを完全に体現していたのはイエス様だけではないでしょうか。イエス様は人々が蔑み軽んじていた人でも、分け隔てなく交わりを持たれました。イエス様がレビ(マタイ)の家で食卓につかれた時、取税人たちや罪人たちも一緒に食卓についていたのを見たパリサイ派の律法学者たちは「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか」(マルコの福音書2章16節)と、弟子たちを問いただしました。その時、イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です」(17節)とおっしゃって、彼らと交わることを喜びとされました。

 イエス様はさらに、差別された人を擁護なさいました。パリサイ人がイエス様を自宅に招いた時、その町にいた罪深い女はイエス様の足を涙で濡らし、髪の毛でぬぐい、足に口づけして香油を塗りました。それを見たパリサイ人は彼女を、そして彼女が行うままにさせているイエス様を蔑みました。それに対してイエス様は、パリサイ人がしてくれなかったもてなしを彼女がしてくれたと擁護し、女に「あなたの罪は赦されています」(ルカの福音書7章48節)と言われました。

  私たちの主イエス様は差別されている者やいじめられている者の苦しみをよくご存知です。そして、そのような人々を擁護し、守り、高めてくださる御方です。私たちの慰めと希望はこのような主イエス様にこそあるのです。


2024年2月の福音

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出会い

  春は別れと出会いの季節です。日本では春に進級、卒業、進学、就職などの節目があります。新しくよい出会いがあることを誰しも望んでいるでしょう。
 一方、季節や時期に関わらずにやってくるものがあります。天変地異などの災害をはじめ、事故や病気などは、会いたくないのに突然やってきます。それらに会わなかったとしても、いずれすべての人が望まずとも出会うものがあります。それは、死です。
 
 どんなに健康でも、裕福でも、細心の注意を払っても、死を避けることは誰にもできません。どうして人は死ななければならないのでしょう。聖書には、「罪の報酬は死です」(ローマ人への手紙6章23節)とあります。死は罪がもたらすものです。

意識してもしなくても、どんな人でも罪を犯します。行動に移す場合もあれば、心の中でのこともあります。法律は心の中まで裁くことはできませんが、創造主である神様はすべてのことをご存知です。そして、1つの罪もお見過ごしになることができません。真の神は完全に清く聖なる存在だからです。人は罪の結果、肉体の死を経験するだけでなく、その後に永遠の裁きがあります。(ヘブル人への手紙9章27節)

聖書には「あなたの神に会う備えをせよ」(アモス書4章12節)と記されています。やがて私たちはみな、いのちを創られた神様にお会いすることになります。そのとき、人生の精算が行われます。そのための備えはできているでしょうか。

残念なことに、罪の問題を解決することは、人間の力では不可能です。そこで神様は私たちのために罪を解決する道を用意してくださいました。それは、全く罪のない神の子が、人としてこの世に生まれ、すべての人の罪を背負って身代わりに裁かれるということでした。イエス・キリストが十字架についたという歴史的事実には、このような意味があります。

十字架にかかって死なれたあと、神の力によりよみがえったイエス・キリストは、今も生きて天におり、あなたに出会うために呼びかけておられます。十字架と復活は、あなたを救うためにどうしても必要なことであり、あなたを愛しているからこそなされたのだということを、信じ受け入れてほしい、と。
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3章20節)。 
 
裁かれるためではなく、救われるため、愛をいただくために、神様と主イエス・キリストと出会ってください。集会においでになり、聖書を通して幸いな出会いをされますように。

2024年2月の聖書の教え

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愛された者

  「キリストのが私たちを捕えているからです。…キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」(コリント人への手紙第二5章14、15節)

 キリストは私たちを愛して、私たちのために死んでくださいました。自分自身を犠牲にしてくださったキリストの愛は、言うまでもなく何ものにも比べられません。


 キリストは全能の神であり、私たちは被造物であって、しかもキリストに逆らったものです。それなのに、キリストは私たちを愛して死んでくださいました。私たちがなすべきことは、キリストを愛してキリストのために生きることです。

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私をし、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(ガラテヤ人への手紙2章20節)

 この個所では「私が生きているのではなく、キリストが私たちのうちに生きておられる」と、コリント人への手紙第二の「自分のために死んでよみがえった方のために生きる」よりも踏み込んだ表現をしています。キリストが私たちのうちに生きておられるからこそ、私たちはキリストのために生きることができます。

 出発点はキリストのです。引用した箇所双方にそのことが記されています。それに応えて私たちはキリストのために生きるのですが、そうするには、神の御子に対する信仰が必要です。信仰によって「自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きよう」ではありませんか。そのはじめは、何かを考えるとき、また行うときに、自分のことではなく主のことをまず考えているだろうか、と自問することではないでしょうか。 

2024年1月の福音

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別 れ

 

  新年になりました。新年の後には新年度が続きます。新年度が近づくことは、別れが近いことを意味します。進級によるクラス分け、進学時の進路の違いによる別れ、就職先が異なることによる別れ、転勤による別れ、などいろいろな別れがあります。

 それらの別れは、再び会うことが決してないことを、必ずしも意味しません。会おうと思えば会えるケースが多いのではないでしょうか。しかし、この世で絶対に会えることはない別れがあります。
 

それはです。 


  しかし聖書は、 再び会える可能性があることをはっきりと教えています。
 「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。』
  よみがえりがあるのです。よみがえりがあれば、私たちは死後にまた会うことができます。 

 

 聖書は真実なこと、聖書の語るよみがえりが確かなこと、どうすればそのよみがえりに与かれるのか、集会に来て詳しい話をお聞きになり、理解なさいますように。



2024年1月の聖書の教え

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「勇気を出しなさい」

あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネの福音書16章32節・33節) 

 

  主イエス様は、十字架への道を進まれるご自身を、弟子たちが見捨てて逃げてしまっても、御父がともにおられるので、ご自分が一人ではないとお語りになりました。主は、御父がともにおられることを良くご存じでしたので、絶対的な平安を持つことができました。主の平安は、御父がともにいてくださるという、揺るぎのないご自身の立場に基づいていたので、主の身にいかなることが起こっても、その平安が損なわれることは決してありませんでした。 

 

 その後、主は、主の弟子である私たちを励ます言葉を残してくださいました。私たちは、神に敵対する世に残され、主のことをあかしする務めを果たすことによって苦難を経験します。私たちはこの世から平安を与えられることを期待することはできません。しかし、主は私たちに「勇気を出しなさい」とおっしゃってくださいます。主は、私たちがこの世にあって主のあかしを担うと、主の平安が与えられることを保証して、「わたしはすでに世に勝ちました。」と宣言してくださいました。主が最後に語られた勝利のことばは、常に私たちの心に勇気を与え続けます。 

 

 ますます、勝利者であられる主イエス様を見上げて、主のあかしを忠実に果たしていきたいものです。 


2024年12月の福音

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「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」(ヘブル人への手紙9章22節)
「すべての肉のいのちは、その血がいのちそのものである。」(レビ記17章14節)
 
聖書はこう語っています。つまり罪を犯したら、それを神から赦していただくためには命を差し出さなければならないのです。罪の種類や数には関係ありません。一つの罪であってもその赦しには命が必要です。
 
それは無茶な話だ。法的な言葉を使えば量刑不当だ、とおっしゃるかもしれません。しかし、真の神を認めれば少しも無茶ではないことが理解できます。
 
神は絶対的に正しいお方です。このことはお認めになるでしょう。もし神が正しくなければ、人間と同じです。したがって、正しい方である神は一つの罪も見逃すことができません。見逃したら、罪を容認したことになり、神は正しくない方になってしまい、神が神でなくなってしまいます。
 
  罪を犯したら命を差し出すならば、誰一人生き続けることはできないではないか、とお考えになるでしょう。そのとおりです。
 
しかし、神は正しい方であると同時に愛であるお方です。神は私たち罪人を愛してくださって、私たちの命を要求する代わりに、イエス・キリストの命をおとりになりました。ただ死に至らせたのではなく、私たちの罪を全部このお方に負わせてお裁きになったのです。これが十字架です。
 
イエス様が十字架上で私たちに代わって血を流してくださったので、私たちの罪の裁きはすでに完了しています。そのことを信じる私たちに罪の赦しが与えられます。私たちのなすべきことはただ一つ。信じることです。イエス様が私たちの身代わりとなって、私たちの罪の裁きを受けてくださったことを信じることです。その信仰によって、私たちに罪の赦しが与えられます。
 
イエス様の十字架の死とそれによる救いについて、ぜひ集会においでくださってお聞きになるようにお勧めいたします。




2023年12月の聖書の教え

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 栄光を御名に帰す 

  主イエス様は祈りについて問われた時、次のように答えられました。 

 「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。」(マタイの福音書6章9節) 

 また、十字架が目前に迫っていることを知られた時に、主イエス様は、父なる神の栄光が現れることを第一に願われて次のように祈られました。 

  「イエスは目を天に向けて言われた。『父よ時がきました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。』」(ヨハネの福音書17章1節) 

  主イエス様が、ご自身を犠牲にするという尊い代価を払ってまで私たちを救われたのは、父なる神様の御名のためであり、それによって栄光を父なる神様に帰するためでした。 

 

  キリストの現れを待ち望んでいた使徒パウロは、定められた時にそれをもたらしてくださる父なる神様に次のように祈りました。 

 「キリストの現れを、定められた時にもたらしてくださる、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。」(テモテへの手紙第一6章15節・16節) 

 

  キリストの模範に倣うべきことを勧めた使徒ぺテロは、次のように語りました。 

「語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。」(ペテロの手紙第一4章11節) 

 

  私たちも、救いの恵みと主イエス様の深い愛を憶えて、感謝しつつ、父なる神様と主イエス様の御名に栄光を帰す生涯を送りたいと願うものです。  

2023年11月の福音

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委ねる

  昨今、少子高齢化が進み、老々介護という言葉がよく聞かれるようになりました。今これをお読みのあなたも、まさにそれを体験なさっているかもしれません。そうでなくても、人はだれしも老いるのですから、明日は我が身です。 

 

 介護する身もされる身も、そうなるといろいろなことを考えるのではないでしょうか。老化が進むと、身動きがきわめて困難になり、自分では何もできなくなることがあります。自分で何もできなければ、他の人のためにもできることはなく、我が身が生きていることに何の意味があるのだろうと、お考えになる方がいらっしゃるでしょう。自分自身に何の価値も見いだせなくなっても不思議はありません。 

 

 介護なさる方は、介護のために多くの時間を費やさなくてはなりません。車椅子を押す、食事の介護などの直接的な作業に加え、食事の用意、洗濯、買い物など、間接的な時間の消費も増えます。 

 それらが重荷に感じられると、「いったい私は何をやっているんだろう。私の人生はこのまましたいこともできずに終わるのだろうか」という思いが湧き出てきます。 

 

 介護する人も介護される人も生身の人間ですから、いつも理想的な人間関係を保てるとは限りません。様々なことが原因でお互いが不満を持ち、ぎくしゃくすることもあるでしょう。介護する人は介護される人から、どんな形でも感謝の思いが伝えられると救われるのですが、その感謝が出て来なくなれば、不満は倍増します。 

 

 これらの問題は、実は老々介護に関わる人だけではなくすべての人に共通する問題です。そして、一言で言ってしまえば、それらは自己中心から発しています。 

自分に何ができるのか」 

自分に何の価値があるのか」 

自分の人生はどうなるのか」 

自分は感謝されて当然だ」 

 

 人はすべて自己中心であり、そこから自力で抜け出られる人はいません。しかし、自己中心から抜け出る方法は一つだけあります。それは「委ねる」ことです。たとえば、何の価値もない自分でも、それをありのまま受け入れてくださる方に委ねることができれば、自分の価値について考える必要がなくなります。 

 

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたし(イエス・キリスト)のもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11章28節) 

 

 イエス様はこのようにお語りになりました。そんなことを信じられるでしょうか。疑問にお感じになるでしょう。聖書にはそれについての説明が書かれています。ぜひ特別集会においでくださって、聖書の語る神と、休みを与えてくださるイエス・キリストと、その十字架についてお聞きくださいますようにお勧めいたします。 

  

2023年11月の聖書の教え

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試練と信仰と希望

 ヨセフは父ヤコブから兄弟たちのだれよりも愛されていた。ヨセフが見た夢のため兄弟たちは、ますますヨセフを憎むようになった。そして、殺すことを企て、穴の中に投げ込まれ、銀20枚で奴隷として売り飛ばされた。本来は愛すべき関係にありながら、このようなことを行ってしまう。人間の罪深さを教えられるところです。

 しかも、ヨセフのことを考えると夢の実現まで、約20年以上の年月と色々の試練の経験が必要でした。それにはどれほどの忍耐、悲しみ、苦しみなどを味わったことでしょう。しかし、ともにいてくださる主、そして信仰によってヨセフは支えられました。

 「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」(ペテロの手紙第一1章7節)
創世記45章5節でヨセフは「神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」と神のみこころを兄弟たちに告げることができました。
これによって私たちは信者の試練と希望と信仰が教えられます。

また、パウロは信者を迫害する者でしたが、復活された主から「わたしの選びの器です。」(使徒の働き9章15節)と告げられた時から「数々の試練の中で主に仕えました」(使徒の働き20章19節)。
ここに主によって与えられた務めを果たすパウロの信仰の歩みを知ることができます。 「私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒の働き20章24節)

パウロはコリント人への手紙第一で「あなた方が経験した試練は、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(コリント人への手紙第一10章13節)と教えました。

この御言葉によって、今日私たちが試練の中でどのように信仰生活を歩んで行けばよいか、教えられます。少しでもパウロの模範にならいたいものです。 

2023年10月の福音

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排他的  

「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。」(使徒の働き4章12節)

聖書は、人が救われるにはイエス・キリストを信じるしかないと教えています。
これは裏を返せば、イエス・キリストを信じなければ救われないということであり、キリスト以外のいろいろな宗教や教えによって救われることはない、ということです。

  ですから、聖書の教えは、ある面では非常に排他的だといえます。
「排他的」という言葉には、一般的に良いイメージがありません。
自分たち以外の人々を否定して攻撃するような、暴力的で怖いイメージが「排他的」という言葉にはつきまとっています。

しかし、もしも本当に真実が一つだけで、それ以外が間違っているなら、「排他的」であるのはしかたのないことです。やたら攻撃的になる必要はありませんが、本当は真実が一つなのに、「真実はいくつもある」と言ったら、不誠実な嘘つきになってしまいます。

たとえば、太陽は東から昇るものであり、他の可能性はありません。「太陽は西からも北からも昇ることがある」というならそれは誤りです。

太陽は常に、「排他的」に、東から昇るのです。
同じように、聖書の教えが真実で、キリスト以外に救いはないなら、他の宗教や教えには救いはないのだと、「排他的」に述べるしかありません。

ですから問題は「排他的」かどうかではなく、本当にキリストだけが救いの道なのか、本当にそれだけが唯一の真実なのかどうかということ、それが「本当」なのかどうかということです。

では、どうしてキリストだけが唯一の救いの道だということができるのでしょうか。
おもに三つの理由があります。

キリストだけが唯一の救いである一つ目の理由は、キリストによる救いが天地万物を創造した唯一のまことの神様の存在を前提にしていることです。

詳細は別に譲りますが、この世界は神様がつくったものであり、神様がつくったものを見ることで神様の永遠の力と性質とを知ることができるようになっています。
ですから、本来、神様のつくったこの世界で生きている限り、唯一まことの神様の存在を認めるのは必然なのであって、そのまことの神様の存在を認める教えだけが真実な教えの候補に残ります。

キリストだけが唯一の救いである二つ目の理由は、キリストだけが「罪」の問題に解決を与えるからです。

これも詳細は別に譲りますが、最初の人類であるアダムとイブの時代に神様との関係が壊れたことに端を発して以来、人間の中にはどうしても悪いことを考えたり行ったりせずにはいられない、性質としての「罪」が巣食っており、その「罪」を完全に清算し、解消してくれるのがキリストです。

人間が根源的に背負っている「罪」というものを最重要の問題として扱い、その完全な解決の道を示す教えというのはキリストによる救い以外に見当たりません。
つまり、「最も重要な問題」として扱うべきことを、実際に「最も重要な問題」として扱っているというのが、キリストが唯一の道として信頼できる根拠の一つなのです。

キリストだけが唯一の救いである三つ目の理由は、キリストによる救いが神様から人間への偉大な「愛」を明らかにしていることです。

この「愛」についての詳細も別に譲らなければなりませんが、キリストによる救いは先ほど述べた「罪」の問題の解決と密接に結びついており、その「罪」の解決の手段として神様が与えたのがキリストの十字架です。

「罪」には刑罰がともなうものですが、神様は私たちの「罪」の刑罰を、イエス・キリストに十字架上で身代わりに受けさせることで、私たちが地獄という永遠の刑罰を受けなくても済むようにしてくださいました。
私たちには、神様から愛される理由は何一つなかったのですが、それにもかかわらず、神様はご自身が最も愛する子であるイエス・キリストを身代わりにするほど私たちを愛してくださいました。

この、普通の考えでは理解が及ばないような強力な「愛」で神様から愛されていることを悟ってしまったがゆえに、この他に真実なものがあるとはクリスチャンには到底思えないのです。

2023年10月の聖書の教え

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未来への視線

   「信仰によって、ヨセフは臨終のときに、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骸について指示を与えました。」(ヘブル人への手紙11章22節)


  創世記から、主イエス様のひな型でもあるヨセフの生涯について教えられてきました。ひとりの信仰者として、見習うべきところの多い人物です。兄弟たちに裏切られ、異邦の地でも人に裏切られる逆境の中でも、神様を信頼し続け周囲の人に誠実を尽くし続けたヨセフには、麗しいところ、学ぶべきところ、賞賛すべきところが多くあります。少年期、青年期、成人期、それぞれの段階で、ヨセフは主とともに歩みました。

 

 ヘブル人の手紙の記者は、しかしヨセフの多くの美点の中で、特に最晩年のことをとりあげてその信仰を称えています。自分の生涯を振り返り、その最期を全うすること。自分が世を去った後のことを考え、その指示をする。親族、民族の将来について、我関せずではなく、先を見据えて預言・助言を与える。そこには信仰と希望がありました。

 純粋な少年だった時代、不遇の中で訓練され成長した時代、大きな責任を与えられて業績を残した時代、それぞれ素晴らしいですが、百十年の生涯の終わりに、老いたヨセフは完成した信仰の輝きをはなっています。心身ともに強いときの大きな働きに人は目を向けがちですが、主は歳を重ねて自由に動けなくなっていく、忠実な信仰者のことをずっと見ていてくださり、その信仰を賞賛してくださいます。

 

 実は、この前の箇所でも、アブラハム、イサク、ヤコブが子孫についてどのように行動したかという信仰が記録されています。私たちはみな老いていくものです。信仰者は天に帰る望み、天に引き上げられる望みをもって歩んでいますが、同時に肉の子孫、霊の子孫についてどれほど関心をもち、そのために祈り、備えているでしょうか。心に刻みたいと思います。 



2023年9月の福音

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あなたを見守っておられる方 

 カーナビゲーションやスマートフォンに搭載され、いまや生活に欠かせないものとなったGPS(Global Positioning System、全地球測位システム)。地図が苦手な人でも、迷子になりやすい人でも、これを使えば、確実に目的地まで行くことができる便利な仕組みです。
  また、見守りGPSは、遠く離れたところから、子どもや高齢者の居場所がわかる小型の発信端末機です。WiFiや携帯の電波が届くところであればGPSで位置情報をリアルタイムに把握でき、迷子や認知症の徘徊などの際にも役立つアイテムです。
 
  聖書には、あなたのことを絶えず見守っておられる方がいらっしゃることが記されています。

「主よ。あなたは私を探り、知っておられます。…あなたは 私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知り抜いておられます。…あなたは前からうしろから私を取り囲み 御手を私の上に置かれました。」(詩篇139篇1節から5節)

「主」とは、天地万物を創造し、あなたにいのちをお与えになられたまことの神様のことです。生けるまことの神様は、いつでもどこにいてもあなたのことを見守っておられます。あなたのことを前からもうしろからも取り囲んでおられます。

まことの神様は、あなたのことを見守っておられるだけではなく、あなたに対して幸いな道を示しておられます。その幸いな道について聖書が私たちに明らかにしています。

「主はこういわれる。『道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それを歩んで、たましいに安らぎを見いだせ』」(エレミヤ書6章16節) 
 
集会においでになられて、聖書から、いつもあなたを見守っておられ、あなたに幸いの道を示しておられる御方についてお知りになられますようにお勧めします。 

2023年9月の聖書の教え

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 嘆く主

 「エルサレムよ、いったい、だれがおまえを深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。おまえはわたしを捨てた。主のことば。」(エレミヤ書15章5〜6節) 


 「だれがおまえのために嘆くだろう」と記されていますが、神様の思いはその逆に、とても悲しみ嘆いておられることが前提になっていると思います。神様は感情豊かな御方です。神様の、エルサレムの叛逆に対する悲しみ・嘆きは計り知れません。
 

  引用箇所の直前の4節には「わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである」とあります。確かに、マナセ王が行った背信は本当にひどいものでした。父ヒゼキヤ王がせっかく取り除いた偶像礼拝の施設を建て直したばかりか、主の宮の中にも偶像の祭壇を築きました。しかし、責任はマナセ王一人に問われるのではなく、エルサレム全体に問われました。すなわち、人々もまたマナセ王の行った背信に賛成し、積極的に与していたからでしょう。 

 

 「嘆く主」の姿はイエス様にも見られます。 

 「イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」(マルコの福音書6章6節) 


 イエス様もまた感情豊かな姿を示されました。郷里のナザレでの人々の姿に驚かれ、また十字架を前にしてエルサレムに入城された時には「エルサレム、エルサレム。」(マタイの福音書23章37節)と言って、頑ななエルサレムの人々を嘆かれました。 

 

  私たちが自分の思いを第一にして神様のみこころを蔑ろにする時、同様に神様は、イエス様は、嘆かれるのではないでしょうか。幸いにして私たちはユダヤ人たちのように神様から捨てられることはありませんが、神様と主イエス様が嘆かれることは、私たちにとって悲しいことです。自らの行動が、思いが、神様とイエス様を嘆かせることにならぬよう、かえって主に喜んでいただけるように、日々戒めたいものです。 

2023年8月の福音

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 「わたしに従って来なさい」 


「あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」(ルカの福音書18章22節)
「何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」という、金持ちの青年の問いに答えて、イエス様はこのようにおっしゃいました。

財産を全部売り払って貧しい人に与えるなどということが、可能でしょうか。実際、この金持ちはそうすることができず、非常に悲しみました。

そもそもこのような要求をする資格のある人がいるでしょうか。いるのです。イエス様だけがこのように要求できます。なぜでしょうか。

 「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。」(ヨハネの福音書10章18節)
イエス様はこうおっしゃって、言葉通り十字架にかかって私たちのためにいのちを捨ててくださいました。ご自分が命を捨てるからこそ、すべての財産を捨てよと、私たちに要求できるのです。
 
イエス様は何のために命を捨ててくださったのでしょうか。私たちの罪を赦すため、赦して永遠のいのちを与えるためです。私たちはすべて神の前に罪があります。罪があるので、金持ちの青年と同じように、そのままでは永遠のいのちを得ることができないのです。
 
イエス様は私たちの罪をすべて負って、神様から裁きを受けてくださいました。私たちの罪のさばきはすでに終わっているのです。私たちのすべきことは、そのことを信じることです。
 
これが聖書の福音です。ぜひ集会においでくださって、福音をお聞きくださるようにお勧めいたします。

2023年8月の聖書の教え

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みことば

「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。」(ペテロの手紙第一1章23節)
  私たちの信仰生活の出発点は新生であり、新生は御言葉によるものでした。

「生まれたばかりの乳飲み子のように、偽りのない、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」(ペテロの手紙第一2章2節脚注別訳)
  さらに、私たちの信仰の成長にもみことばは欠かせません。乳飲み子が乳を必要とするように、私たちもみことばを必要とするのです。成長したら固い食物を食べることも教えられています(ヘブル人への手紙5章12~14節)。固い食物は、みことばに含まれている深い真理を意味します。

 みことばを学ぶときに注意すべきことがいくつかありますが、その一つは信仰を持ってみことばを読むことです。
 「けれども彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。」(ヘブル人への手紙4章2節)
このみことばが直接教えていることは、旧約のイスラエル人が聞いたみことばを信じなかったので、約束の地カナンに入れなかったことです。

  私たちもみことばを読んだとき、信仰によってそれを受け入れなければ、御言葉が教える幸いを自分で経験することができません。たとえば、「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」(コリント人への手紙第二1章4節)というみことばを読んでも、それを信じなければ慰めを得られません。

「私たちが、…空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(テサロニケ人への手紙第一4章17節)というみことばを読んでも、それを信じなければ励ましを得られません。 

信仰を持ってみことばを読み、霊的な成長を遂げ、主の与えてくださる祝福を味わいましょう。 

2023年7月夏の特別伝道集会

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夏の特別集会のご案内

■とき:7月23日(日)から30日(日)まで
 ・7月23日(日)・29日(土)・30日(日)
午後2時から
・7月24日(月)から28日(金)まで
午後7時30分から

■場所:キリスト集会所

■語り手
・福岡満雄兄(前半4日間)
・竹尾潤兄(後半4日間)


集会では、上記の日程で、聖書からキリストの福音をお伝えいたします。
この機会に、聖書の福音をお聞きくださるようにお勧めいたします。一切無料です。
(車でおいでの方は隣接の集会所の駐車場をご利用ください。)


2023年7月の福音

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すばらしい愛

 「友はどんなときにも愛するもの。」(箴言17章17節)
この聖書のみことばは、真の友とは「どんなときにも」変わることなく自分を愛し続けてくれる人であると教えています。「どんなときにも」とは、あなたがどんな状態になっても、ということを含んでいます。
皆さんには、「どんなときにも」決して変わることなくあなたを愛し続けてくれる真の友がいらっしゃるでしょうか。
 
「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛をだれももっていません。」(ヨハネの福音書15章13節)
この聖書のみことばは、人が持つことができる「最も大きな愛」について語られています。最大の愛は自分の友のためには、自分の最も大切ないのちさえも犠牲にするほどのものです。
皆さんには、あなたのためにいのちを捨てるほど大きな愛を持ってあなたを愛している友がいらっしゃるでしょうか。

 「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。」(ヨハネの手紙第一3章16節)
主イエス様の弟子として3年数ケ月イエス・キリストの身近にいたヨハネは、私たちに対するキリストの愛についてこのように証言しています。
私たちは神の前に罪人となってしまいましたが、キリストは私たちを愛してくださいました。ですから、キリストはどんなときにも愛してくださる友です。

天地創造のまことの神であるキリストは、世界中のすべての人を深く愛しておられます。
私たちはみなまことの神を無視して生きている罪人です。神の前における罪のゆえに、私たちは死後のさばきを受けなければなりません(ヘブル人への手紙9章27節)。
 
そのような私たち罪人を愛するキリストは、私たちを罪のさばきから救うために人となってこの地上においでくださり、私たちに代わって罪のさばきを受けてくださり、ご自分の尊いいのちを犠牲にしてくださいました。それがキリストの十字架です。

キリストが私たちのために命を捨ててくださったことは、私たちに対する限りない愛を示しています。私たちは友ではなく友以下の者、罪人であり、キリストに逆らう者ですが、それでもなおキリストは私たちを愛してくださいます。
 
 ぜひ集会においでくださって、私たちに対する主イエス・キリストのすばらしい愛についてお聞きくださるようにお勧めします。 

2023年7月の聖書の教え

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 みことば

 「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。」(ペテロの手紙第一1章23節)

  私たちの信仰生活の出発点は新生であり、新生は御言葉によるものでした。

 
「生まれたばかりの乳飲み子のように、偽りのない、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」(ペテロの手紙第一2章2節脚注別訳)

  さらに、私たちの信仰の成長にもみことばは欠かせません。乳飲み子が乳を必要とするように、私たちもみことばを必要とするのです。成長したら固い食物を食べることも教えられています(ヘブル人への手紙5章12~14節)。固い食物は、みことばに含まれている深い真理を意味します。

 みことばを学ぶときに注意すべきことがいくつかありますが、その一つは信仰を持ってみことばを読むことです。

 「けれども彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。」(ヘブル人への手紙4章2節)

 このみことばが直接教えていることは、旧約のイスラエル人が聞いたみことばを信じなかったので、約束の地カナンに入れなかったことです。

 

  私たちもみことばを読んだとき、信仰によってそれを受け入れなければ、御言葉が教える幸いを自分で経験することができません。たとえば、「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」(コリント人への手紙第二1章4節)というみことばを読んでも、それを信じなければ慰めを得られません。

「私たちが、…空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(テサロニケ人への手紙第一4章17節)というみことばを読んでも、それを信じなければ励ましを得られません。 


 信仰を持ってみことばを読み、霊的な成長を遂げ、主の与えてくださる祝福を味わいましょう。 

2023年6月の福音

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 人は死んだらどこへ行く?

  聖書は死んだ後のことについて、ずばりシンプルに「天国」か「地獄」のどちらかに行く、ということを教えています。神様に正しいと認められた人は天国に行き、悪いと判断された人は地獄に行きます。

 しかし、どういう人が神様から「正しい」と認められる人で、どういう人が「悪い」と判断される人なのか、というところが聖書の教えと普通の考えとでは違っています。聖書の教えによると、どんなに立派な行いをした人でも地獄に行くことがあるし、普通はとても悪い人だと思われるような殺人犯などでも天国に行くことができます。
 
 いったいどうしてそんなことになるのかというと、神様が人間を「正しい」か「悪い」か判断する基準が、イエス・キリストを信じるかどうかという点にあるからです。
 
 そもそも、神様は完全にきよく正しいお方なので、どんな小さな心の中の悪い思いも見逃すことができません。ちょっと人のことを心の中でねたんだとか、憎んだとか、バカにしたとか、それだけでもうアウトです。どんな小さな悪い思いも持たない人というのは存在しませんから、基本的に全ての人は神様の前には「悪い」者なのであって、人類全てが100パーセント地獄に行くべき存在なのです。
 
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9章27節)

しかし、地獄に行くべき私たちに与えられた神様からの救済策が、イエス・キリストの十字架です。イエス・キリストの十字架は、私たちが地獄で受けなければならなかった刑罰を、「身代わり」に受けてくださった出来事でした。イエス・キリストの十字架という「身代わりの刑罰」によって、私たちの行った悪いこと、心の中に抱いた悪い思いのさばきは完了しました。地獄に行くしかなかった私たちに、神様は天国行きの「特別許可」を与えてくださったのです。

この神様からの「特別許可」を拒否することもできます。人間には自由意志があるからです。しかし、拒否すれば「特別許可」は無効になり、地獄行きになってしまいます。つまり、天国に行くか地獄に行くかの違いは、どれだけ良いことをしたか、あるいはどれだけ悪いことをしたか、ということによるのではなく、神様から誰でも無料でもらえる天国行きの特別許可証を、受け取るか拒否するかの違いによる、ということです。

先ほど、基本的には全人類が100パーセント地獄に行かなければならないと書きました。しかし、天国行きの特別許可証が、「特別」と言いつつ”誰でも”、”無料で”受け取れるなら、逆に全人類が非常に簡単に100パーセント天国に行くことが可能ということにもなります。

全人類が100パーセント地獄に行くべきというと、なんだか恐ろしい教えのようですが、その反面、全人類がなんの苦労もなしに100パーセント天国に行ける可能性があるというのは非常に親切で優しい教えではないでしょうか。天国への道は完全にお膳立てされています。天国行きの許可証は受け入れるだけ、信じるだけの超絶簡単発行です。

ぜひあなたもイエス・キリストの十字架の意味を知って、一緒に天国に行きましょう。
 「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」(テモテへの手紙第一2章4節) 


2023年6月の聖書の教え

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喜びで満ちあふれる

「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。」(ヨハネの福音書15章11節)

 

 このみことばには、主イエス様の弟子たちに対する教えの目的の一つが示されています。それは、弟子たちの心が「主イエス様の喜び」で満ちあふれるためです。それは、私たちクリスチャンが主イエス様の教えを学ぶ目的の一つでもあります。

  私たちがますます熱心に主のみことばを学ぶことによって、私たちの心が「主イエス様の喜び」で満ちあふれることができるように励みたいものです。


 「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(ヨハネの福音書16章24節)

 

  このみことばには、私たちが主イエス様の御名によって祈る祈りの幸いが語られています。私たちが、主イエス様の御名によって祈るとき、主イエス様は私たちの祈りに応えて下さることを約束してくださいました。主が御名による祈りに応えて下さったことを私たちが知るときに、私たちの心は喜びに満ちあふれます。

  私たちがますます熱心に主イエス様の御名によって祈ることによって、私たちの心が喜びに満ちあふれるように励みたいものです。

2023年5月の福音

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「出て来た故郷」と「天の故郷」 


 「もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。」(ヘブル人への手紙11章15~16節)

この聖書のみことばには、アブラハム、イサク、ヤコブに関する2つの「故郷」のことが語られています。

ひとつは、彼らが「出て来た故郷」すなわち「地上の故郷」です。アブラハムは神様から命じられて、彼の「生まれ故郷」であるカルデヤ人のウルを出て、カナンの地で生涯天幕生活を送りました。そして彼らは二度と「地上の故郷」に帰ることはありませんでした。カナンの地で「旅人」あるいは「寄留者」としての生涯を送ったのです。

それは、アブラハムたちが「もっと良い故郷」に憧れていたからでした。アブラハムたちが憧れていた「もっと良い故郷」とは「天の故郷」すなわち「天国」のことです

 「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ人への手紙3章20節)
 
  この聖書のみことばでは、主イエス・キリストを信じたクリスチャンの国籍について語られています。世界中のクリスチャンには、それぞれの異なった地上の国籍があります。しかし、世界中のすべてのクリスチャンには共通の国籍があります。それが「天の国籍」です。

 聖書は一貫して、イエス・キリストを信じる者に約束されている「天の故郷」「天の国籍」について証ししています。
 
  私たちは皆、やがてこの地上を去る時が来ます。その時が来る前に、聖書が私たちに約束している「天の故郷」「天の国籍」について聖書からお知りになりませんか。集会においでになり、神のことばである聖書が語る「天国」についてお知りになることをお勧めします。

2023年5月の聖書の教え

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キリストの集会(ローマ16章16節)について

「幕屋と祭壇の周りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。」(出エジプト40章33~34節)

  モーセが幕屋を建立し、献げ物をした時の場面です。そのとき神様は喜び、そこに住まわれ、栄光をお現しになりました。

 「祭司たちはその雲にさえぎられ、そこに立って仕える事ができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。」(Ⅱ歴代5章13~14節)

  これはソロモンが神殿を建立し、献げ物をした時の場面で、そのとき同じ様に神様は喜ばれ、ご自分の栄光を現されました。

 幕屋も神殿も神様が御名を置かれたところで(Ⅱ列王8章16節)、神様はそこで栄光を現されました。

 省みて現在、神様が栄光を現わされるところは、言うまでもなく集会です。

 集会は尊い主様の血によって買い取られたもの。贖われた信者が御名のもとに集います。集会は御名を冠するもので、からだなる集会の頭はキリストです。

 集会は、信者が集い、神の恵みと主様の愛を覚え、御名に感謝と賛美と栄光を帰するところです。

 また、集会は灯台として、世に神の光を輝かす働きもあります。そして、神様の尊い福音を宣べ伝え、みことばを学び、お互いの徳を高め合う幸いなところでもあります。

 
 集会には世にはない信者の交わりがあり、弱い小さな者であっても、主に在る者として助け合い、励まし合いながら、信仰を全うできるように歩んで行きます。

 信仰生活で試練や困難はありますが、それは初代の使徒たちも経験したことで、私たちには、信仰を全うし、よみがえられた主様が居り、いつもそば近くで助けてくださいます。

 弱い私たちを強くしてくださる主を信じて、神様の栄光を現せたら幸いと思います。



2023年4月の福音

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人はなぜ死ぬのか?

「すべての人は死ぬ」
 これはごく当たり前のことのように思えます。
 どんなに体が丈夫で健康に気をつかっている人でも、いつかは死にます。

 また、どんなに長生きできたとしても、せいぜい120歳くらいが限界であり、ほとんどの人はそれよりも低い年齢で死にますし、青年や中年のうちに死んだり、場合によっては子どものうちに死ぬ人もいます。

 しかし、多くの人は、自分がいつか死ぬと知っていながら、死ぬのを怖いと思い、できるだけ死なないように、健康に長生きできることを望んでいます。
 また、他の人の死に対して、私たちはとても悲しい気持ちになります。

 人が死ぬのが当たり前ならば、そんなに死を避けたり、怖がったり、悲しんだりする必要はないのではないでしょうか。しかし、私たちの死に対する行動や感情は、まるで人が死ぬことが当たり前ではないかのようです。

 実は、聖書では、死というものが世界の始まりには存在せず、後から入ってきたものであることを教えています。つまり、人間はもともと死なない存在だったのであり、死がこの世界に存在するのは、ある意味で非常に「不自然」なことなのです。

 なぜ人間が死ぬようになったかというと、それは人間が神様に対して罪を犯したからです。

 みなさんご存知の、聖書に出てくる最初の人類であるアダムとイブ(エバ)は、神様が食べてはならないと命じた木の実を取って食べてしまいました。それ以来、この世界に死が入り込み、人間は死ぬようになってしまいました。

「一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」(ローマ人への手紙5章12節)

つまり、神様の命令に違反したことが死の始まりだったのです。このことは、死というものが単なる自然現象ではなく、人間が神様とどういう関係にあるのかを象徴していることを意味しています。

人間は神様を無視し、その呼びかけに無反応で、神様がいないかのようにして生活しています。そのような状態は、たとえ肉体は生きてはいても、神様から見るとなんの応答もしない死体と同じであり、神様から見たその無反応状態、神様との関係が失われてしまっている状態こそが、聖書が教える「死」の本質です。

聖書が教える救いは、この神様との失われた関係を回復することで、死を完全に克服する道筋を示すものです。

 「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。」(コリント人への手紙第一 15章22節)

さらに聖書の示す救いについてお知りになり、死の恐れや悲しみからの完全な解放を得られるようにお勧めします。


2023年4月の聖書の教え

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主があなたとともにいる

  モ ーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに次のように約束されました。

 「わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア記1章5節)

 このことは、モーセに代わってこれから民たちを先導するヨシュアにとって、どれほどの励ましであり、力づけであったことでしょうか。事実、主はヨシュアに約束された通りに彼とともにいてくださり、彼がイスラエルの民をカナンの地に導き入れることができるように助けてくださいました。

 

  復活された主イエス様は、弟子たちに、次のような命令と約束とを与えられました。

「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28章20節)

 主の命令は、私たちが主イエス様の命令を守ることであり、主の約束は、主イエス様が世の終わりまでいつも私たちとともにいてくださることです。

 私たちは、いつも私たちとともにいてくださる主の愛と恵みに応えて、主の命令を忠実に守り行い、主の栄光を現しましょう。 

2023年3月の福音

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友との別れと出会い

 
「サヨナラだけが人生だ
3月は「別れ」の季節です。卒業、就職、転勤、などで住み慣れた土地を離れ、親しい友と別れ、寂しく思う人もいるでしょう。中国の唐の時代(紀元9世紀頃)に于(う)武陵(ぶりょう)という詩人が書いた「勧酒」という詩は友との別れを詠んだものとして知られています。

勧君金屈卮 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離

この詩を、井伏鱒二という小説家が詩の形で訳しました(原文はカタカナ)。

この盃を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐の例えもあるぞ 「サヨナラ」だけが人生だ

最後の句は身に沁みる言葉です。親しい友との別れは身を切るような悲しみを覚えさせられます。あるいは、それが人生の悲哀なのでしょうか。

ダビデの友情
聖書にも親しい友と別れた人がいます。後にイスラエルの王となったダビデです。
ダビデは若いころから目覚ましい働きをしたために、サウル王から自分の立場を脅かす者と妬まれて命を狙われていました。一方、サウルの息子ヨナタンはダビデを自分と同じほどに愛していました。

危機が迫った時、ダビデはヨナタンと会い、サウル王が自分を殺そうとしていることを訴えました。ヨナタンは半信半疑でしたが、父の気持ちを確認してダビデに伝えることを約束しました。そして、父がダビデへの殺意に燃えていると分かった時、ヨナタンはダビデに密かに会いに行き、父の気持ちを伝えてダビデに急いで逃げるようにと勧めました。この時が最後の別れでした。その後、ヨナタンは父サウルと共に戦いに行って戦死しました。知らせを受けたダビデは悲しみ嘆きました。

「あなたのために私はいたく悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜び楽しませ、あなたの愛は、私にとって女の愛にもまさって、すばらしかった。」(サムエル記第二1章26節)

困難や命の危険を経験したダビデにとって、敵対する立場にありながら彼を愛して常に支えてきたヨナタンは、まさに「真の友」と呼ぶにふさわしかったことでしょう。

真の友とは?
あなたには親しい友がいますか? その人はダビデとヨナタンのように、あなたを愛して支えてくれ、またあなたもその人に尽くしたいと思う人でしょう。そんな友をもう一人紹介しましょう。それはイエス・キリストです。

「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネの福音書15章13節)

イエス様は「真の友」とはあなたのために自分の命を捨てるほど大きな愛を持っている人だ、と教えました。そのイエス様は、まさにそれを実行してくださった方です。
 
 あなたが天地万物を創造された真の神様を認めずに歩んでいるならば、神様の前に罪人であり、裁きを受けなければなりません。しかし、神のひとり子であるイエス様はあなたが滅びることを望まれずに、人として地上に来てくださり、十字架にかかってあなたの代わりに裁きを受けてくださいました。そして、このイエス様を自分の救い主と信じることによって滅びから救われる道を開いてくださいました。

3月が過ぎて4月になると、新たな出会いの時です。あなたも真の友であるイエス様に出会いませんか? 集会においでになって、あなたへの招きの言葉に耳を傾けられますよう、お勧めします。

 

2023年3月の聖書の教え

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互いの幸い

 ローマ人への手紙14章で、パウロは食べる・食べないことや日を守る・守らないことに関連して、自分の考えを正しいとして他の信者の意見を否定することを戒めています。ユダヤ人と異邦人の間には様々なことに関して意見の違いがあり、救われて神の集会に導き入れられた信者の中にもそれが影響を与えることがありました。

  私たちは「それぞれ自分の心の中で確信を持つ」べきですが、自分の信仰は正しく、他の人の信仰はそうではないと考え、それによって「互いにさばき合う」ことは神様のみこころではありません。それは信者の分を超えたことであり、神様のなさることを自分がやろうとする、いわば思い上がったことです。聖書にはっきりと示されていることならば根拠を示すことができますが、各自の信仰や判断に関することについて、自分が正しいという立場に自分を置き、他人をさばくことでその相手をよりよくできるかというと、むしろ自分だけはいい気分になるが相手を傷つけることになります。

  言葉で論じるよりもよいのは、「兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしない」、行動をもってより幸いな道を示すことです。そして、パウロは「平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう」と勧めました。自分が他の兄弟姉妹に対して言ったりやったりすることは、兄弟姉妹の、集会の平和に役立つことでしょうか、むしろ平和をこわすことでしょうか。また、お互いの霊的成長に役立つことでしょうか、むしろ成長を妨げることでしょうか。

 自分の意図よりも大切なのは、それが他の人に与える影響です。もちろん、和を保つために明らかな間違いに目をつぶることはあってはならないし、霊的に低いところにとどまることもみこころではありません。慎重な判断と、慎重な行動が求められます。互いが幸いな成長に導かれ、平和が保たれることで、集会全体が成長していくことを願います。 

2023年3月春の特別伝道集会

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特別伝道集会

 

と き:3月18日(土)・19日(日)

 午後2時からおよそ1時間

 

語り手:熊野浩一郎兄(福岡県大野城市)

 

2023年2月の福音

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狭い門

  「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイの福音書7章13、14節)

大学の入学試験の季節になりました。「狭い門」という言葉は、入学試験に合格することが難しいという意味で使われてきました。しかし、今は死語になりつつあります。

特定の大学に関してはまだ「狭い門」という言葉が当てはまりますが、すべての大学をひっくるめて考えると、えり好みさえしなければ希望者はほぼ必ずどこかの大学に入れます。そういうわけで、「狭い門」という言葉はあまり使われなくなりました。

じつは、「狭い門」という言葉はもともと主イエス・キリストが語って、聖書に記録されている言葉なのです。もちろん、大学入試に関する話ではありません。冒頭に「狭い門」について述べた聖書の文章を引用しましたが、それを読むと分かるように、「滅び」と「いのち」に関する話なのです。

いのちとは「永遠のいのち」であり、滅びとは「永遠の滅び」です。永遠についてお考えになったことがおありでしょうか。永遠の時間について考えたことがあっても、私たち自身と永遠に直接の関係があるとはお考えになってはいないのではないかと思います。

聖書は、私たちが永遠の存在であることを教えています。いのちを持って永遠を生きるか、永遠に裁きを受けるか、二者択一なのです。ぜひ聖書を読んで永遠についてお考えになってください。

「狭い門」について、聖書はこうも語っています。
「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。」(ルカの福音書13章24節)
 
「狭い門」から入るにはあなたご自身の努力が必要です。その努力は良い行いをしようとする努力ではありません。入ることを一生懸命に求める努力です。そうすれば、神様が主イエス・キリストによる救いに導き、狭い門から入れてくださいます。聖書をご自分でお読みになるとともに、集会においでくださって、聖書の話をぜひお聞きください。 

2023年2月の聖書の教え

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 互いの幸い

 ローマ人への手紙14章で、パウロは食べる・食べないことや日を守る・守らないことに関連して、自分の考えを正しいとして他の信者の意見を否定することを戒めています。ユダヤ人と異邦人の間には様々なことに関して意見の違いがあり、救われて神の集会に導き入れられた信者の中にもそれが影響を与えることがありました。

 私たちは「それぞれ自分の心の中で確信を持つ」べきですが、自分の信仰は正しく、他の人の信仰はそうではないと考え、それによって「互いにさばき合う」ことは神様のみこころではありません。それは信者の分を超えたことであり、神様のなさることを自分がやろうとする、いわば思い上がったことです。聖書にはっきりと示されていることならば根拠を示すことができますが、各自の信仰や判断に関することについて、自分が正しいという立場に自分を置き、他人をさばくことでその相手をよりよくできるかというと、むしろ自分だけはいい気分になるが相手を傷つけることになります。

 言葉で論じるよりもよいのは、「兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしない」、行動をもってより幸いな道を示すことです。そして、パウロは「平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう」と勧めました。自分が他の兄弟姉妹に対して言ったりやったりすることは、兄弟姉妹の、集会の平和に役立つことでしょうか、むしろ平和をこわすことでしょうか。また、お互いの霊的成長に役立つことでしょうか、むしろ成長を妨げることでしょうか。

 自分の意図よりも大切なのは、それが他の人に与える影響です。もちろん、和を保つために明らかな間違いに目をつぶることはあってはならないし、霊的に低いところにとどまることもみこころではありません。慎重な判断と、慎重な行動が求められます。互いが幸いな成長に導かれ、平和が保たれることで、集会全体が成長していくことを願います。


2023年1月の福音

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チリにすぎない人間 

「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」(創世記2章7節)
 
人間は大地のチリからつくられました。

神様が最初につくった人間はアダムという名前でしたが、この名前は土や大地を意味するアダマーという言葉から来ています。アダマー(土)を材料にしてつくられた存在なのでアダムというわけです。

実際、人間の体はどこにでもある、普通の物質だけでできています。水が60パーセントくらい、他に炭素、カルシウム、窒素などがおもな構成要素です。人間の死体を放っておくと腐ってしまいますし、火葬にすれば灰になってしまいます。

私たちは、基本的に人間の命というものを尊いものとみなして生きていますが、あくまで物質的に見ると、特に尊い要素はありません。極端な言い方をすれば、人間は究極的には「動いてしゃべる土人形」でしかないのです。

それでも、人間はもっと何か尊い存在のはずだ、単なる動く土のかたまりではないはずだ、という考えは捨てきれないと思います。聖書もまた、人間を単なる動く土のかたまりとして切り捨ててはいません。

聖書は人間を尊いものとして扱っています。ただし、人間をつくった神様との関係が良好であるならば、という条件付きです。

人間は、神様によって、神様のためにつくられました。ですから、人間は、神様のために、神様との関係の中で生きるときに、はじめて意味のある尊い人生を送れるのです。
反対に、神様との関係から離れて生きるなら、本来の目的からはずれることになり、その人生は無意味でむなしいものになります。

人間が単なる動く土のかたまりなのか、それとも尊い存在なのかは、神様との関係次第です。神様との本来の関係を取り戻し、意味のある人生へと導かれるようにおすすめします。まず聖書をお読みください。また集会においでくださって福音をお聞きください。


2023年1月の聖書の教え

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信仰を喜ばれる主

 「イエスは彼女に言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。』」(ルカの福音書8章48節)

12年間長血を患っていた女性は「『あの方の衣にでも触れれば、私は救われる』と思って(脚注は「言って」)」いました(マルコの福音書5章28節)。そのように言うためには勇気が必要です。彼女の周囲にはイエス様を認めない者もいたことでしょう。その中で、イエス様への信仰を普段から言い表していたのは幸いな姿です。私たちの模範とするところです。

ところが、彼女はいざイエス様の衣に触れて長血が癒されると、そのことをすぐに言い表すことはしませんでした。イエス様はそれを残念に思われたのではないでしょうか。普段からご自身への信仰を言い表していた彼女の土壇場での臆病さは、イエス様の逮捕を前にしたペテロにも通じるのかもしれません。私たちの弱さをここでも教えられます。

しかし、イエス様は彼女にその信仰を言い表すよう促されました。それに応えた彼女に対して、イエス様は慈愛に富んだ言葉をお与えになりました。彼女自身の信仰をイエス様はお認めになり、喜ばれました。そのことは彼女にとっていかに喜ばしく、また誇らしかったでしょうか。そして、イエス様への愛をますます強くしたことでしょう。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル人への手紙11章6節)
ヘブル への手紙の記者は「信じなければならないのです」と語って、私たちに信仰を強く要求しています。それが神に喜ばれることだからです。


 新たな年を迎えました。地上での旅路はあとどれくらいで、イエス様のおいではいつでしょうか。今年も信仰を持って神様の前に歩めたら幸いです。

2022年12月の福音

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 走るべき道のり

 「私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(テモテへの手紙第二4章6~8節) 

 

 これは世を去る直前に使徒パウロが記した言葉です。彼は「走るべき道のりを走り終え」と言っていますが、これは驚くべき言葉ではないでしょうか。「走るべき道のり」とは、 人生でパウロがなすべきことがあり、それが何か自分で分かっていることを意味します。あなたは自分の人生で何をすべきか、おわかりでしょうか。
 

 「走り終え」とは、なすべきことをすべて成し遂げたということです。あなたがまだ若いのならば、そう言うには早すぎるでしょう。しかし、成し遂げられそうな見込みがおありでしょうか。 


 そればかりではありません。「あとは、義の栄冠が私のために用意されている」とも、パウロは言っていますが、「あとは」とは死後のことです。死後に義の栄冠が与えられるという希望を、パウロは持っていました。あなたに確実な死後の希望があるでしょうか。 

 
 パウロの言うことすべての根底は、イエス・キリストに対する信仰です。「走るべき道のり」はイエス・キリストを主として信じることであり、「走り終え」ることは、一生、主に従った人生を送ることです。「義の栄冠」はそのような生涯を送った人に用意されている栄誉です。
 
 パウロのような人生を送りたいとお考えになりませんか。確固とした生きる目的をもって毎日を過ごせることは、なんとすばらしいことではありませんか。目的を持つだけでなくそれを達することができるのは、また、死後に栄誉が与えられることは、さらにすばらしいことです。
 

 パウロがそうであるからといって、あなたご自身もそうできるかという疑問をお持ちになるでしょう。そもそもパウロとあなたと何のかかわりがあるのか?イエス・キリストとはだれか?死後などというものがあるのか?そうお考えになるのは当然です。聖書がそれについて解答しています。ぜひ聖書をお読みください。また、集会においでになって聖書の話をお聞きください。

 解答の一部だけここで述べるならば、イエス・キリストは人となって来られた神の御子であり、あなたの罪を負って十字架にかかり、あなたの罪のさばきをあなたに代わってお受けになってお死にくださいました。そして、三日目によみがえられました。ですから、死後について語る権威をお持ちです。
 

 あなたが人生の盛りを過ぎていても、道のりを走り終えて「義の栄冠」を受けるのに遅すぎることはありません。パウロはまた、義の栄冠は「主の現れを慕い求めている人には、だれにでも」与えられると記しているからです。 

 

 

2022年12月の聖書の教え

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あなたが心に留められる

 
「あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るに 人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。」(詩篇8・3,4)
 
 私たちは、神が私たちの祈りに答えてくださることは当然だと思っていないでしょうか。そんなことはない、当然ではない、ということをこの御言葉は教えてくれます。これはダビデの詩篇ですが、ダビデは天を見上げ、月や星を見て、神の創造の御業の壮大さに思いを馳せ、それに比べて人の小ささを痛感しました。広大な宇宙の中で私たち一人ひとりは、神の目に留まらなくても何の不思議もないほど小さな存在です。
 そんな私たちでさえ、神は心に留めてくださいました。
 
「まことに、まことに、あなたがたに言います。私の名によって父に求めるものは何でも父はあなたがたに与えてくださいます。」(ヨハネの福音書16・23)
  父なる神は私たちの願いを聞いてくださると、主は約束してくださいました。小さい、小さい私たちですが、神の心に留まっているのです。それは全く当然ではなく、神の限りない愛と恵みによることです

 私たちは神の一方的な愛に感謝しましょう。私たちは神の愛にまったく値しない者ですが、神は私たちを愛してくださり、「求めるものは何でも」与えてくださるのです。(もちろん、それは神のみこころにかなうものでなければなりません(ヨハネの手紙第一 5・14)。)ですから、受けるに値しない者に与えてくださる神の愛に感謝しつつ、喜んで神に求めましょう。



2022年11月の福音

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「あなたとともにいます。」

 現代は、孤独や孤立が大きな問題となっています。高齢者の孤独死や子どものいじめなど、報道されていることはそのほんの一部でしょう。これは決して他人ごとではありません。悲しみ、苦しみ、失望、絶望などで心が痛んでどうしようもないとき、誰かひとりでもともにいてくれたら。ただ一緒にいてくれるだけでいい。そう思うことがあります。家族でも友だちでも、そういう人がいるなら幸せです。でも、どんなに親しい人であっても、いつでも一緒にいてくれるとは限りません。状況の変化、時間の経過で関係は変わっていきます。たとえ気持ちは変わらなくとも、死によって別れなければならないこともあります。人は究極的にはひとりであるという言葉は残念ながら一面の真理を示しています。

  しかし、どんなときにもともにいてくださる方がいます。
 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28章20節)
これはイエス・キリストの言葉です。この言葉について考えてみましょう。
聖書は、神でありながら人としてこの世に誕生したイエス・キリストのことを記録しています。聖書の伝える神様は、自然界の被造物や人間が何らかのレベルアップをしたようなものではなく、世界を創造した唯一絶対者です。一点の罪もない、完全に義である存在。一方、人間は罪ある存在です。戦争や犯罪も、人生で起こるさまざまな問題も、根底にあるのは罪です。私たちの心の中に、神を認めず、人を愛さない、利己的な思いがあり、それが問題を引き起こします。どんな人でも罪があります。そして神様は聖なる方として罪を一つも残さずさばかなければなりません。

いったいどうすれば神が人をさばかず、人をお赦しになることができるでしょうか。それは、罪のない神の子が人となり、私たちの罪をすべて背負って身代わりにさばかれることによってのみ可能となったのです。それがイエス様の十字架の意味でした。それでは、今から二千年前に十字架で死んだイエス様がどうしていつもともにいると言えるのでしょうか。それはイエス様がよみがえられ、今も生きて天におられるからです。
 
「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました」
。(ローマ人への手紙4章25節)
こうして、交わることのできなかった罪人が神様に受け入れられ、永遠にさばかれるはずの者が、永遠に神様とともに生きる者とされたのです。

クリスチャンは、これらの聖書の言葉を理論や教義ではなく真実と信じています。どんな苦境のときでも、自分がどんな状態であっても、いつもともにいてくださるイエス様を信じているのです。

ひとりでも多くの方がイエス・キリストを信じて、永遠の救いと本当の慰めを得られることを、神様は心から願っておられます。お忙しいと思いますが、集会へおいでになって、聖書の話を聴き、かつ聖書を実際にご自分でお読みになり、確かめていただくことをお勧め致します。どうぞご自由においでください。


2022年11月の聖書の教え

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 主の与える平安

  「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイの福音書11章29節・30節)

 私たちがたましいに安らぎを得るためには、主のくびきを負って歩み、主から学ぶ必要があります。つまり、安らぎを得るために私たちがしなければならないことがあるのです。しかし同時に、それはむずかしいことではない(負いやすく、軽い)とも、主は教えてくださいました。
 
 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話した全てのことを思い起こさせてくださいます。わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。」(ヨハネの福音書14章26節・27節)

 主は、最後の晩餐の席上で、助け主としての聖霊の働きと、主が与える平安についてお語りになりました。助け主である内住の聖霊は、すべてのことを教え、主が私たちに話されたすべてを思い起こさせて、私たちに主の平安を与えて下さいます。しかも主の平安は、世が与えるものとは異なります。また、くびきを負うことによって与えられる平安とも少し違うと考えられます。主の平安は、私たちがそれを得るために何かをする必要がないからです。
 
 忠実に主に従うことによって、主が与えて下さる平安に満たされて歩みたいものです。
 


2022年11月秋の特別伝道集会

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特別伝道集会

 

と き:11月19日(土)・20日(日)

 午後2時からおよそ1時間

 

語り手:河合直樹氏(富山県砺波市)


2022年10月の福音

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いのちと財産 

  「人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカの福音書12章15節) 

 

  このみことばは、イエス・キリストが語られたことばです。 

 

  私たちは財産を多く持つことによって物質的に豊かな人生を送ることができます。毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちがいたことを、イエス様は語られました。しかも、その金持ちの家の門前には、お腹を空かしておできに悩まされていた貧乏人がいました。(ルカの福音書16章19節~21節)そのように、財産の豊かさや乏しさはその人の地上の人生を大きく左右します。 

 

  しかし、イエス様のお言葉通り、私たちのいのちは財産によっていつまでも保たれるわけではありません。事実、イエス様が語られた金持ちも貧乏人もともに死を迎えました。(ルカの福音書16章22節) 

 

  イエス様は、人の人生はこの地上で終わりなのではなく、死後も永遠に続くことも語られました。(ルカの福音書16章23節~31節)神のみことばである聖書は、人の死後の永遠について、永遠の滅び(テサロニケ人への手紙第二1章9節)と永遠のいのち(ヨハネの福音書3章16節)の二つがあることを証ししています。 

 

  私たちはみなこの地上で豊かな幸福な人生を過ごしたいと願っています。しかし、仮にどんなに豊かな人生を送ったとしても私たちは必ずこの人生の終わりを迎える時がやって来ます。この機会に、神のみことばである聖書から、死後の永遠についてお考えになられますようにお勧めします。  

2022年10月の聖書の教え

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 神の懲らしめ 

  「わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。」(箴言3章11、12節)

  このみことばで、ダビデのことを思い出します。神はダビデに油を注がれましたが、それはダビデにとって、苦難の始まりでした。詩篇にあるように、死と、となり合せの時もありました。その苦難はサウル王のねたみによるものであり、ダビデの日々がどんなに大変であったか想像に余りあります。

 サウルを打ち取る機会が2度もありましたが、ダビデは神が油をそそがれた人に手を下すことはできないと、神の裁きに委ね、信仰に立った決断をしました。私たちなら災いの元凶が目の前にいれば、手を下していたと思います。ダビデの偉大さがそこにあります。神を信ずる人の信仰が現された、絵を見るような一場面です。

 その様に、試練の時に主に信頼したダビデにも大きな失敗がありました。それは王となった後に、バテ・シェバとの間の罪によって主のみこころを損なったことでした。しかしダビデは、預言者ナタンによってその罪が指摘された時に、心から悔い改めました。(サムエル記第二11~12章)

  さらに、その後の主の懲らしめに対しても自分を低くして主のみこころに委ねました。ダビデがアブシャロムに追われていた時に、シムイがダビデを呪ったのですが、ダビデはアビシャイたちにこう言ったのです。

 「ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。『見よ。私の身から出た私の息子さえ、私のいのちを狙っている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。放っておきなさい。彼に呪わせなさい。主が彼に命じられたのだから。おそらく、主はおそらく、主は私の心をご覧になるだろう。そして主は今日の彼の呪いに代えて、私に良いことをもって報いてくださるだろう。』」(サムエル記第二16章10~12節)

 聖書の中に出てくる人物は私たちに教訓を与えるもので、常に学ばなければなりません。ダビデのように、神様の懲らしめもないがしろにすることなく、忍耐をもって受け入れ、成長したいものです。

2022年9月の福音

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「わたしがあなたがたを休ませてあげます」

  スリランカの現状をご存じでしょうか。国の経済が破綻して、食料やガソリンの極端な不足など人々の生活に深刻な影響が出ています。この写真は食料袋を受け取っている様子です。長蛇の列ができていることをお分かりいただけると思います。(写真略)
 
 この食料袋は主にイギリスの信者の支援によるものです。このように、私たちは個人的にもスリランカの人々を少しは助けることができます。しかし、抜本的な解決は私たちの力を超えるでしょう。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11章28節)
 イエス・キリストはこのようにお語りになりました。私たちの疲れや重荷は様々で、私たちは他人の疲れを癒すことや、重荷を取り除くことはほとんどできませんが、イエス・キリストは制限をつけずに「休ませてあげます」とおっしゃったのです。なんと、私たちの死の問題でさえ解決してくださいます。
 
「そんなばかなことが」とお考えにならずに、聖書が語るイエス・キリストについて、一度集会においでになって、お聞きになりませんか。


2022年9月の聖書の教え

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「わが胸にひびく歌」

  皆さんの胸にひびく賛美歌はどれでしょうか。以前、聖歌の460番は「わが胸にひびく歌あり」という賛美歌で、集会でも歌われました。

「わがむねにひびくうたあり かつてのあしきしもべが こころのけがれあらわれ よろこびもてうとうなり」

  賛美歌の題の直下に「すべて心のなおき者よ喜びよぼうべし」(詩篇32・11文語訳)と記されています。詩篇32篇はダビデによるマスキールであり、「幸いなことよ その背きを赦され 罪をおおわれた人は。幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。」(1~2節)という出だしから最後の11節に至ります。

 そして33篇は、主に喜びと感謝をもってほめ歌をうたうようにと語っています。私たちもまたダビデと同じように、救われた喜びと感謝をもって主を賛美する者です。

 私の胸にひびく歌はこれ以外にも多くあるのですが、「歌いつつ歩まん」と「いつかは知らねど」は特に私の心にひびく歌です。私の信仰生活の歩みについて、そして救われた者の希望について、これらの歌を歌う時に励まされ、力づけられ、喜びで満たされます

  「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい」(エペソ5・19)と、パウロはエペソのクリスチャンにすすめました。私たちは詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、交わる者であることも教えられます。救われた者として、喜びと感謝をもって、ともに心を合わせて心から主を賛美しましょう。  皆さんの胸にひびく賛美歌はどれでしょうか。以前、聖歌の460番は「わが胸にひびく歌あり」という賛美歌で、集会でも歌われました。

「わがむねにひびくうたあり かつてのあしきしもべが こころのけがれあらわれ よろこびもてうとうなり」

  賛美歌の題の直下に「すべて心のなおき者よ喜びよぼうべし」(詩篇32・11文語訳)と記されています。詩篇32篇はダビデによるマスキールであり、「幸いなことよ その背きを赦され 罪をおおわれた人は。幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。」(1~2節)という出だしから最後の11節に至ります。

 そして33篇は、主に喜びと感謝をもってほめ歌をうたうようにと語っています。私たちもまたダビデと同じように、救われた喜びと感謝をもって主を賛美する者です。

 私の胸にひびく歌はこれ以外にも多くあるのですが、「歌いつつ歩まん」と「いつかは知らねど」は特に私の心にひびく歌です。私の信仰生活の歩みについて、そして救われた者の希望について、これらの歌を歌う時に励まされ、力づけられ、喜びで満たされます

  「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい」(エペソ5・19)と、パウロはエペソのクリスチャンにすすめました。私たちは詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、交わる者であることも教えられます。救われた者として、喜びと感謝をもって、ともに心を合わせて心から主を賛美しましょう。 

2022年8月の聖書の教え

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「謙遜」

 「私は、ユダヤ人の陰謀によってこの身に降りかかる数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきました。」(使徒20・19)

パウロが、ミレトからエペソの教会の長老を呼び寄せて語ったことばです。

 「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び」(エペソ4・2)

  パウロはどんな境遇の中でも、常に主の前でへりくだって主に仕えていたことが良くわかります。エペソの信者にも同様にからだなる集会を建て上げるため、召しにふさわしく歩むことを勧めました。

 また、ペテロも信者にこのように語っています。「最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。」(Ⅰペテロ3・8)「若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。」(Ⅰペテロ5・5)

 福音書のペテロは肉の強い者でしたが、使徒の働きに記されているペテロは、聖霊に満たされた以降は、ヨハネの福音書21章で主によって語られたとおり、死に至るまで神の栄光を現しました。そして信者に「謙遜を身に着けなさい。」と勧めることができました。

 パウロもペテロと同様に主を見上げて信仰の生涯を全うしました。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」(ヘブル12・2)

 私たちの最高の模範者であられるイエス様にならい、謙遜を身に着けたいものです。

2022年7月の聖書の教え

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「未来への確信」

 

「彼らは神のしもべモーセの歌と子羊の歌を歌った。『主よ、全能者なる神よ。あなたのみわざは偉大で、驚くべきものです。』」(黙示録15章3節)「『すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。』」(4節)

 

悪魔によって権威が与えられた獣とその名を示す数字に打ち勝った人々が、7つの鉢のさばきの直前に歌った歌は「モーセの歌」とも呼ばれています。その「モーセの歌」は出エジプト記15章と、申命記32章の賛美を指すものと考えられます。

「『主に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。』」(出エジプト記15章1節)

「国々よ、御民のために喜び歌え。主がご自分のしもべの血に報復し、ご自分の敵に復讐を遂げて、ご自分の民とその地のために宥めを行われる。」(申命記32章43節)

出エジプト記は、すでになされたみわざへの賛美であり、申命記は、これからなされるみわざへの賛美です。モーセは生涯をとおして神様の恵みを経験したので、死ぬ直前でも神様がこれからなされるみわざを確信し、賛美をすることができました。

 私たちは信仰によって救われたとき、私たちのためになされた十字架のみわざをおぼえ、賛美の歌を歌いました。その後の信仰生活の中でも、私たちに与えられた恵みと守りから神様のご栄光をおぼえ、日々賛美の歌を歌っています。それは出エジプト記のモーセの歌のようです。そして私たちは、申命記のモーセの歌のように、これからなされるみわざにも確信を持って神様を賛美することができます。私たちにはイエス様が迎えに来てくださることと、天でいつまでもイエス様とともにいることのできる約束が与えられています。年齢や病気のために体は衰えていきますが、これまでの恵みに感謝しつつ、未来にも確信を持って感謝と賛美を捧げましょう。

2022年7月夏の特別伝道集会

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特別伝道集会

 

と き:
7月24日(日)・30日(土)・31日(日)は
 午後2時からおよそ1時間

 7月25日(月)から29日(金)までは
 夜7時30分からおよそ1時間
 
語り手:
藤巻由紀夫氏(埼玉県熊谷市)前半の4日間
工藤輝喜氏(千葉県松戸市) 後半の4日間

2022年6月の聖書の教え

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「砕かれること」

 イスラエルの父祖、族長ヤコブは、若い頃には野心家で自分のために人を出し抜くことをためらいませんでした。しかし叔父ラバンのもとで暮らす日々は、忍耐を学ぶ日々でした。

「昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした」(創世記31・40)という生活を、妻となるラケルとレアのために十四年間、さらに羊の群れのために六年間送りました。

 やがてそこを去って故郷への旅をする中で、対立していた兄エサウと再会します。わだかまりを乗り越えて、兄がともに旅をと提案しますが、ヤコブは「子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れはすべて死んでしまいます。…家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け…ます」(創世記33・13‐14)と語ります。争いを避ける意図もあったでしょうが、ヤコブは長年の経験から、弱いものの立場を理解し共感することを学んだと思います。私たちは「追い立てる」ことをしがちですが、「歩みに合わせる」ことは忍耐を必要とします。自分が強い、力があると思っていると、それは難しいことです。この出来事の前、32章でヤコブは「ももの関節、腰の筋」を打たれ、足を引きずるようになりました。

 つらい経験は、できればしたくないものです。しかし苦しい経験は、耐え忍ぶこと、そして弱いものの立場に立つことを教えてくれます。自分の力が砕かれた時、私たちはへりくだって主により頼むことを学びます。家族、集団を導く上で大切なのは、いかに個人の能力や資質に秀でるかではなく、むしろ弱さを知り、へりくだることだと教えられます。

全能者である主イエス様は、誰よりも謙遜です。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。…すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」(へブル書4・15)私たちの大牧者である方にならいたいと願います。

2022年5月の聖書の教え

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「世への裁きをどう受け止めるか」

 

「第一のわざわいは過ぎ去った。見よ、この後、なお二つのわざわいが来る。」(黙9:12)

「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」(ローマ11:33)

 

今、新潟集会では定期の学び会で黙示録を学んでいます。患難時代における神様の世への裁きの苛烈さを思い知らされます。7つの封印の災いは序の口です。7つのラッパの裁きでは上の引用の後の6番目のラッパの時に「人間の三分の一を殺す」(黙9:15)ことが行われます。そののちに起こる7つの鉢の裁きは最も苛烈です。神様の裁きは加速度的に激しくなり、同時に世の反逆も最高潮に達します。そんな時、主イエス様が地上に再臨されるのです。

この患難時代の出来事について、新約の聖徒である私たちが直接関わらないことは本当に幸いです。主イエス様の十字架とその贖いの尊さを思い知らされます。では、救われた私たちには直接関係のない患難時代の出来事について、私たちはどう受け止めたらよいのでしょうか?患難時代についての学びは様々なことを教えてくれます。まず、神様は罪を見逃すことはなさらない方なのだと改めて知らされます。ご自身に反逆する罪人に対して、神様は必ず裁きを下されます。それは、神様が全く義なるお方であることを示します。また、神様は約束を違える方ではないことも示されます。旧約聖書の預言はここに実現します。これらに思いを馳せると、私たちは神様の摂理を覚えて、神様への賛美へと導かれます。これは、黙示録を読む意義の1つです。

 パウロはイスラエル民族に対する神様の摂理を覚えた時に、深い賛美へと導かれました。神様を誉めたたえることは私たちの特権です。日々、この特権を行使したいものです。

2022年4月の聖書の教え

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「信仰による喜び」

「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」(ヘブル11・13)

信仰の人は約束のものを喜び迎えた、と記されています。約束のものを喜ぶことができたのは、信仰があったからです。約束のものは、今手に入れていませんが、必ずそれを得られると信じたからこそ、今も喜ぶことができたのです。

 「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」(ヨハネ8・56)

アブラハムは「見るようになること」を喜んだのです。まだ見ないうちに喜べたのは、必ず見ると信じたからです。

私たちも信仰によって喜びましょう。私たちはこの地上で手に入れていないことや見ていないことがあります。その第一は、私たちが天に帰り、主にお会いすることです。さらに、召された兄姉にお会いすること、主から報いをいただくこともあります。約束を与えているみことばを信じて、喜びましょう。

他ならぬ「みことばの約束」を信じるのだと、あらためて思い起こすことは重要です。こうなってほしいという私たちの希望を信じるのではありません。もちろん私たちの希望や願いに主は答えてくださいますから、希望するなというのではありません。しかし、確信が与えられるのは、主が御言葉によって約束してくださっていることを信じるときです。

みことばを信じるときに私たちが喜べることは、ヘブル人への手紙の人々やアブラハムの例によって示されています。この地上では私たちの意に沿わないことや、私たちがどうすることもできないことが多々起こります。そういう時には喜べません。しかし、そういう時であっても、御言葉の約束を信じるならば喜べるのです。

絶対に実現する約束を信じて、喜びつつこの地上の歩みを続けましょう。


2022年3月の聖書の教え

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「感謝しなさい。」

 

 主のみことばから「感謝する」ことについてみこころを覚えてみたいと思います。

 

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。」(エペソ人への手紙5章20節)

 このみことばは、私たちの感謝が常に主イエス・キリストの御名によってなされるべきことを教えています。また私たちの感謝は、父なる神様に向かってなされるべきことも教えています。

 

「キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおりに信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。」(コロサイ人への手紙2章7節)

 このみことばは、私たちが教えられたとおりに信仰を堅くし、心からあふれる思いによって感謝すべきことを教えています。

 

「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(テサロニケ人への手紙第一5章18節)

 このみことばは、私たちがすべてのことにおいて感謝することを、神様がキリスト・イエスにあって望んでおられることを教えています。

 

 「感謝する」ことの乏しいものですが、主のみことばによって、ますます「感謝にあふれた」信仰の歩みをしたいものです。


2022年3月春の特別伝道集会

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特別伝道集会

 

と き:3月19日(土)・20日(日)・21日(月・祝)

 午後2時からおよそ1時間

 

語り手:泉川 安志氏(松戸市金ヶ作)


2022年2月の聖書の教え

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「目を離さないでいること」

 

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」(ヘブル人への手紙12章2節)

 

ここで、ヘブル人への手紙の著者は、迫害や困難の中にいるクリスチャンたちに、イエス様から目を離すことなく忍耐をもって走り続けるようすすめました。私たちは確かに、試練や困難に直面している時、その苦しみや弱さのゆえにイエス様から目を離してしまいそうになる者です。

 

 私たちは実際に、どのような時に、イエス様から「目を離して」しまいやすいでしょうか。

・「周りに気を取られている時」

 何かイエス様以外のことに目を向けたり、そちらを優先したりした時などは危険であると教えられます。

・「慢心している時」

 パウロは「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(コリント人への手紙第一10章12節)と記しました。自分は信仰に立っていると思って慢心している時ほど、注意しなければならないことを教えられます。

 

 ヘブル人への手紙の著者は、心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするために、イエス様から目を離さないことをすすめました(同12章3節)。イエス様から目を離さないことこそ、私たちが霊的に元気を保ち、疲れないで歩み続ける秘訣です。

 

 私たちはいつもイエス様から目を離さずに、主イエス様を見上げて歩み続けたいものです。


2022年1月の聖書の教え

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「主にある慰めと喜びと平安」

 

 「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネの福音書16章33節)と主様は語られました。

 実際に、主様は公生涯に入られた時、荒野でサタンの試みを受けました。それは、世の人が求める名誉と権力と生活の問題の試練でした。私達は信仰の生涯が常に平穏なものでありたいと願うものですが、時に予期しない試練に遭遇することがあります。主様はみことばによってサタンの試みに勝利されました。私達も主様の模範に倣い、常にみことばによって世にある苦難に勝利したいものです。

 更に、「キリストの苦難の証人」(ペテロの手紙第一5章1節)であった使徒ぺテロは、「むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」(同4章13節~14節)と勧めました。

 また、誰よりも多くの「キリストの苦難」を経験した使徒パウロも、「私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです」(コリント人への手紙第二1章5節)と証ししています。

 私たちも使徒たちの模範に倣い、御名のために苦難に遭遇した時これらのみことばを思い起こして信仰によって主を見上げ、御霊による喜びと慰めと平安に満たされることができたら幸いです。


2021年12月の聖書の教え

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「アダルの月(第12月)」

 

今年も最後の月となりました。ユダヤ人の暦の最後の月はアダルの月です

「くじは第12の月、すなわちアダルの月に当たった。」(エステル記3章7節)

ユダヤ人が捕囚として祖国から移されていた時代に、ユダヤ人が根絶やしにされそうになる事件が起こりました。その期日が12月13日と決定され、ユダヤ人のうちに大きな悲しみが起こりました(4章3節)。そのような困難な時に、モルデカイやエステルなどのユダヤ人たちは3日3晩断食して神に救いを求め(4章16節)、その結果、神の御助けにより、ユダヤ人は敵の手から救い出されました(9章1節)。1年間の最後にユダヤ人に大きな苦難と試練が与えられましたが、神はユダヤ人の願いにこたえて、試練から脱出させてくださいました。ユダヤ人がその年の終わりに一年を顧みたら、神の限りない御力と恵みを感じて大いに喜び、感謝したことでしょう。

 

 私たちにも今年、色々な出来事が起こりましたが、主がともにいてくださって支えてくださいました。

「あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。」(ヤコブの手紙5章13節)

とあるように、今年1年の主の支えをあらためて思い起こし、どんなときでもいつも力強く支えてくださる主を覚え、主から目を離さず、心を引き締め、一日一日信仰により御霊によって祈り賛美して、神のみこころのうちを歩みたいものです。